呉羽の昔ばなし

白鳥城の豊臣秀吉

白鳥城の豊臣秀吉挿絵1

白鳥城は、呉羽丘陵の最高峰、城山(145.3メートル)に築かれた山城です。昔から富山平野の中央にそびえ、軍事上のよりどころでした。

寿永2年(1183)には、ここで木曽義仲の武将今井四郎兼平が陣をとり、また、戦国時代には神保氏が、本格的な城を築いたそうです。

天正13年(1585)8月のことです。加賀の前田利家の案内で、豊臣秀吉の一群が、山道を上ってきます。頂上の白鳥城に、千生瓢箪の馬標がたちました。秀吉が、富山平野を見おろしています。

白鳥城の豊臣秀吉挿絵2

「ほおっ、あれが有名な越中の立山か!」
「あそこが、ザラ峠のあるあたりです。佐々陸奥守成政が、徳川家康に会いにいくとき越えたところです」
「そうか、ま冬のさなか、吹雪の中でよくも山越えしたものだなあ」
「この下の方に見える川が神通川です」

「ほう、陸奥守が搦め手の要害とした神通川が、あれか!」
「はるか向こうに、帯のように光って見えるのが常願寺川です」
「富山城を、洪水で泥海の中の浮き城とした常願寺川は、あんなに急なところを流れているのか!陸奥守は、堤防を修理して水害から城下を救ったと聞いているが、さぞ、苦心したことだろう」

秀吉は、利家の説明を聞きながら、富山城を見下ろしています。その富山城には佐々成政がいます。成政は、初め、秀吉や利家、家康と同じく織田信長の家臣でした。信長が本能寺で最期をとげた後、家康や信長のあとを継いだ織田信雄と協力して、成政は、秀吉を滅ぼそうとしました。
しかし、家康は賛成せず、利家は秀吉の味方になったので、成政は、孤立してしまったのです。

そして、今、秀吉の軍勢十万人が、成政を取り囲んでいます。西の方、呉羽山のふもとの安養坊には前田利家・利長親子の陣があり、東の境(朝日町)には越後の上杉景勝が進出し、南からは飛騨の金森長近が攻めこんでいます。山や谷は五、六里にわたって、武士でいっぱいです。

昼は、数千の旗が風に翻っています。夜になると、かがり火が天を焦がすかと思うほどあかあかとして見えます。どう考えても二万の軍勢では、もう勝負にならないと思ったのでしょう、成政は、ついに降伏しました。

秀吉は、成政の降伏状を、白鳥城に着く前に八幡峰(石動)で受け取りました。
返事を三回も出しました。
最初の返事は、切腹せよ。
次の返事は、信雄が命ごいをしているから、信雄に免じて助けよう、しかし、前田利家がどう言うだろうか。そして三回目、利家も命ごいをしているので助けよう、その上、信雄に免じて新川一群を与えようというのです。

数日後、秀吉は、降伏した成政のあいさつを、白鳥城で受けました。成政は、髪を剃り、墨色の法衣をまとっていたということです。

成政に会った後、秀吉は、白鳥城をたち、十万の大軍とともに凱旋しました。富山城は、ひっそりとしています。

"なにごとも 変わり果てたる世の中に
 知らでや雪の白く降るらん"

白鳥城の豊臣秀吉挿絵3

成政は、さびしい気持ちをうたによみました。長らくつづいた越中の戦国時代が、終わりました。

おはなしの舞台

佐々成政は、秀吉に降伏を許されたお礼にと秀吉本陣の白鳥城へ出向いた。その途中で、成政が剃髪したと伝えられる所は、富山市民芸館近くといわれている。現在、石碑が建てられている。

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