黒部の太陽の舞台黒四を知る・日本が世界に誇る戦後復興のシンボル

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太平洋戦争終戦後、占領統治下にあった日本では、昭和26年5月1日、電力再編成が行われ、日本発送電(株)が解体された。代わって新たに全国を9ブロックに分割し、ブロックごとに発電・送電・配電を一環して扱う電力会社が誕生した。富山県は北陸電力(株)の管轄となったが、黒部川の峡谷部はその開発経緯をふまえ、関西電力(株)の所管となった。
当時関西地方では、昭和26年、27年にかけて長期の電力使用制限がおこなわれ大きな社会問題となっていた。しかし日本産業のエネルギー需要はとどまることを知らず、大火力発電所ではカバーしきれない需要変動に素早く対応するため、黒四(黒部川第四発電所黒部ダムの総称)の建設計画が具体化。関西電力(株)にとって黒部川で最初に手がける大プロジェクトであり、まさにその社運をかけて挑んだのが黒四であった。
黒部の太陽の舞台となった黒四ダム完工式
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黒部ダムオフィシャルサイト「黒部ダムムービーより」

調査

黒部の太陽の舞台黒四ダム調査黒部の太陽の舞台黒四ダム日電歩道
黒四開発のための調査は、古くは大正6年に東洋アルミナム(株)の高峰譲吉博士の命で山田胖氏が始めたことに由来する。大正13年からは平から現流域を踏破してその概要を把握した。大正7年三共(株)が水利権を申請したが、大正14年日本電力(株)が正式にこれを引き継ぎ、日電歩道を開削、調査にも一段と熱が入った。その後、昭和16年日本発送電(株)に引き継がれたが、第二次世界大戦のため中断した。
昭和26年関西電力(株)に引き継がれ、さっそく精密な測量や地質調査が開始。在来の日電歩道が毎年数百万円を投じて保守され維持された。黒四は秘境黒部の心臓部「下の廊下」を中心とした地域であって、ダムの規模は当時国内最大で、世界でも五指に入るものであった。

資材輸送路

ダムの資材輸送路の選定について、次の三つのルートが考えられた。
1)宇奈月ルート:宇奈月から黒部川沿いに溯行して発電所予定地へ、さらにトンネルでダム地点へ達するルート
2)立山ルート:立山有料道路を延長し、一の越峠の下をトンネルで貫いてダム地点へ達するルート
3)大町ルート:大町市街地から林道に沿って扇沢に達し、ここから後立山連峰をトンネルで貫いて、ダム地点に達するルート
以上の三案を比較すると、大町ルートが建設費も27億円(当時)と安く冬期の気象に起因する作業上の制約も少ないので、最終的には大町ルートが採用されることとなる。かくして、昭和31年6月に建設事務所が長野県大町市街地の外れに開設され、翌7月より着工となった。この大町ルートの開通は、ダムの本格的工事の着工を左右する極めて重要な工事であり、とりわけ大町トンネル(扇沢~ダム地点:現在の関電トンネル)の開通は、全工事の死命を制した。→詳細は「破砕帯」ページへ
(木本正次による小説、及びこれを原作とする1968年2月17日に公開された、三船敏郎石原裕次郎出演の「黒部の太陽」では、破砕帯突破の苦闘がメインに描かれている。)
黒部の太陽の舞台黒四ダム資材輸送
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黒部ダムオフィシャルサイト「黒部ダムムービー」より

ダム工事

黒部の太陽の舞台黒四ダム冬期
昭和33年5月に大町ルート開通後、ダム工事が本格的に開始。130万立方メートルのダム基礎の掘削、160万立方メートルのダムコンクリートおよびこれに要する350万トンの骨材の製造と運搬、一日10m以上のトンネルの掘進、50万立方メートルの地下大洞窟の掘削である。しかも5カ年という工期である。そして気象の関係でダムは一年のうち正味7ヶ月しか作業はできず、大型機械・高能率の施工機械を使用したが、また一方では経済性も強く求められた。
黒四工事は工期を急ぐ関係から、冬期でも作業を中断することはできない。初年度の冬から作廊谷に200人前後、地下発電所に200人~300人くらいの越冬が必要。雪崩が恐ろしいことと、国立公園であることから穴居生活が考案され、労働省労働基準監督署(当時)の許可条件である災害・衛生・疾病・食料の確保・防犯・交通に関する安全性などの指示に従い、万難を排して越冬作業は完遂された。

ダムコンクリート打ち込み世界記録

昭和34年9月18日、「定礎」と刻みこまれた花崗岩の礎石が参列者が祈りをこめて見守る中、黒部ダムのコンクリートに埋め込まれた。翌35年は中間湛水の年であり、除雪して早い時期にコンクリートを打ち始め、順次打設量を上げて8月には14万7千立方メートルに達した。また一日の打ち込み量は、7月16日に8653立方メートルが記録され、これらはいずれも当時の世界新記録であった。
黒部の太陽の舞台黒四ダム建設

完成

黒部の太陽の舞台黒四ダム完工式黒部の太陽の舞台黒四ダム慰霊碑
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黒部ダムオフィシャルサイト「黒部ダムムービー」より

平行して行われていた黒部ルート(黒部ダム~仙人谷)が昭和34年に貫通、全地下式である黒部川第四発電所も昭和36年1月には、1・2号機が発電を開始した。約7年の歳月と延べ970万人の作業員、総工費513億円(当時)をかけた世紀の大工事、黒部川第四発電所の竣工式は昭和38年6月5日挙行された。首脳部の喜びは当然のこと、直接工事にたずさわった技術者、事務担当者、さらに請負業者も7年の苦労の成果を振り返るとき、立場こそちがえ感激ひとしおのものがあった。
しかしそのかげには晴れの竣工の姿に接することもできず、工事の尊い犠牲者となった171人の人達がいた。安全管理の面で、関係官庁の指導を受け、関西電力(株)・請負業者が万全の処置をとっていたものの、墜落や落盤・車両機械・発破等の事故によるものであった。なお、これら殉職者を悼み、その功績を長しえに伝えるため、黒部ダムの傍らに慰霊碑が建立され毎年慰霊祭がおこなわれている。
 

参考文献

黒部川のあゆみ-峡谷観光と電源開発・ 温泉開発-(宇奈月町教育委員会)

黒部奥山をひらく(関西電力(株)) 

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