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大破砕帯遭遇
昭和31年10月、大町トンネル(現:関電トンネル)の本坑掘削が、一日平均10mを目標にしジャンボ掘削機で掘進を開始した。最初の一ヶ月ぐらいは一日平均3~5mであったが、能率はしだいに上がり一日20.2mという新記録を達成。厳冬中もトンネル掘削工事は続けられ順調に進みつつあった。
ところが昭和32年5月1日、坑口から1691mの地点で突然、地盤が盛り上がり、「ギギギッー」という異音と共に鉄製の支保工が押し曲げられ、トンネルは崩壊寸前の危険な状態となった。それと同時に切羽は崩れ落ち、約100立方メートルの岩片や土砂を押し出し、上部からは最大毎秒660リットルにも及ぶ冷たい地下水が噴き出してきた。約80mにも達する大破砕帯に遭遇し、以後実に7ヶ月にわたって格闘することとなる。 (名作「黒部の太陽」の舞台)
ところが昭和32年5月1日、坑口から1691mの地点で突然、地盤が盛り上がり、「ギギギッー」という異音と共に鉄製の支保工が押し曲げられ、トンネルは崩壊寸前の危険な状態となった。それと同時に切羽は崩れ落ち、約100立方メートルの岩片や土砂を押し出し、上部からは最大毎秒660リットルにも及ぶ冷たい地下水が噴き出してきた。約80mにも達する大破砕帯に遭遇し、以後実に7ヶ月にわたって格闘することとなる。 (名作「黒部の太陽」の舞台)
太田垣社長の決意
大町トンネル工事の行き詰まりは当時のマスコミでも大きな話題となり、「関電の命取りになる」のではないかと噂された。工事は困難を極め、同年7月16日には大量の湧水と土砂崩壊が起こり、ついに掘削作業は不可能となってしまった。軟弱な破砕層に加えておびただしい高圧の湧水は水温も摂氏4度ときわめて低温であった。
この大破砕帯の対応策について、一時はトンネルのルート変更も検討されたが、太田垣社長の決断により現状ルートで続行する方針がとられた。また、同年8月、破砕帯の現場を視察に来た太田垣社長は、「鉛筆1本、紙1枚を節約してでも黒四の工事には不自由させないぞ。必要なものはなんでも送るからがんばってくれ」と激励し、関電の幹部会議で工事完遂の決意を告げた。その後国内の地質学会、土木学会をあげて、そのもてる経験と知識を結集し、徹底的な検討と研究が行われた。
この大破砕帯の対応策について、一時はトンネルのルート変更も検討されたが、太田垣社長の決断により現状ルートで続行する方針がとられた。また、同年8月、破砕帯の現場を視察に来た太田垣社長は、「鉛筆1本、紙1枚を節約してでも黒四の工事には不自由させないぞ。必要なものはなんでも送るからがんばってくれ」と激励し、関電の幹部会議で工事完遂の決意を告げた。その後国内の地質学会、土木学会をあげて、そのもてる経験と知識を結集し、徹底的な検討と研究が行われた。
破砕帯突破
具体的な工法として、水抜工法とセメントミルク注入による、地山凝結法を併用した。このグラウチングでは、湧水中においてもセメント凝結時間を早める目的と破砕岩石の内部に十分浸透させる目的で、ハイドロックという化学薬液とセメントを混合したものを注入した。水抜工法の効果が徐々にではあるが発揮されてきたので、本坑掘進には抜堀式工法を採用して粘り強く掘削を進めた。
同年12月、ようやく大破砕帯を突破。その後工事は急ピッチで進み、翌昭和33年5月に大町ルートが開通に至った。ダム工事は本格的な段階へと進み、途中伊勢湾台風などの影響で洪水に見舞われたものの、以降はほぼ順調に工事は進んだ。
同年12月、ようやく大破砕帯を突破。その後工事は急ピッチで進み、翌昭和33年5月に大町ルートが開通に至った。ダム工事は本格的な段階へと進み、途中伊勢湾台風などの影響で洪水に見舞われたものの、以降はほぼ順調に工事は進んだ。
木本正次による小説、及びこれを原作とする1968年2月17日に公開された、三船敏郎・石原裕次郎出演の「黒部の太陽」では、破砕帯突破の苦闘がメインに描かれている。
参考文献
黒部川のあゆみ-峡谷観光と電源開発・ 温泉開発-(宇奈月町教育委員会)
黒部奥山をひらく(関西電力(株))









