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御旅屋(おたや)とは、前田藩主が、鷹狩や領内巡視の際、宿泊や休憩するところをいいます。 戸出御旅屋は、寛永19年(1642)加賀藩3代藩主前田利常によって建てられ、十村3代川合又右衛門がその管 理を命じられました。 次いで5代藩主綱紀の時、建物や屏風など一切の備品 と共に又右衛門に下付けされました。 それ以後貞享3年(1686)川合家のものとなりましたが、 この門だけが残り川合家菩提寺である海雲山永安寺に移 されました。 この門は、もともと左右両袖付で桁行11.5mの大き なものでしたが、明治20年に右袖が失われ現在の姿に なったものです。 非常に頑固な陣屋建築で桁組・狭間などに特徴があり、 江戸時代初期の建物として面 影を残しています。昭和42年市指定の文化財として保存されています。 |
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句碑は、高さ148cm(4尺9寸)、幅60cm(2尺)の自然石に芭蕉の句が刻まれています。 この碑は、芭蕉の門人尾崎康工(八椿舎)が、師恩に感謝するために、宝暦年中(1751〜63)に建立したものと伝えています。康工の著した「八椿集」に翁塚を築く云々とありますが、建立の年月は記入していません。 もとは永安寺の北方、町川(戸出口用水)の東側の土堤に150年以上もたった桜の老樹の傍に建っていました。桜はおそらく句碑建立の時に植えたものと思われます。この地一帯は当時、南側に永安寺があり、寺町の西側は四ッ辻より永安寺の向い小路まで川合家の居屋敷であり、東側には御蔵があって、新町の中心的な場所でした。 昭和24年国道156号線の拡張工事が行なわれた時、戸出町の俳人有志が、永安寺境内の現在地へ移建保存したものです。移建の際碑の下より刻字の石片が多数出土しました。再びそれを今の石碑の下へ埋めました。これは康工の築いた石碑が破損したので、後年現在の石碑を再建の際、その破損石片を碑の下に埋蔵したものでなかろうかと推察されています。金梅居香圃が来村し、翁塚を拝して、 「しくるるや石の寂とふ桜木に」 と詠み、康工を偲んでいます。句碑は、昭和33年11月24日、戸出町文化財に指定されています。 |
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寛永20年(1643)春、川合家の三代目当主広満が建立しました。宝暦2年(1752)7月25日に半焼し(高畠文書)、安政6年(1859)十六世謙性和尚の代に再修理しています。 本尊 釈迦如来 |
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四世物先和尚の元禄11年(1698)に建立しました。十六世謙性和尚の慶応3年(1867)に瓦葺きとしました。 | |||||||
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| 建立年月は不詳ですが、十六世謙性和尚の安政6年(1859)に再建しました。永平寺開山、当寺開山・二世・三世の等身大の木造が安置してあります。 | ||||||||
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| 六世大担和尚の享保16年(1731)に川合家隠寮を移築したものといわれています。 | ||||||||
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| 四世物先和尚の代の宝永5年(1708)に川合家四代目当主の武房(又八)が建立しました。九世越之和尚の天明3年(1783)7月24日に夜半庫裡より失火しました。その時、和尚は門を閉じて観音堂で心経を読み祈願したところ、大火忽ち鎮火したといいます。それ以来毎年この日に防火祈念法会を営んでいます。 本尊 千手観音「川合家守本尊遷座」 |
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文化10年(1813)十四世謙道和尚夢のお告げによって尊像を勧請しました。仮安置のままであったのを、40年後の嘉永5年(1852)十六世謙性和尚が夢のお告げを受け、同年秋御堂を観音堂の傍に新造し奉安しました。二四世良仙和尚が150年ぶりに修築したところ、十六世謙性和尚の裏書がでました。 本尊 今毘羅大権現 |
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石地蔵尊の勧請の年代は不詳ですが、薬師堂と共に四世物先和尚の遺稿に記されていることから元禄中期(1696〜)以後、川合家五〜七代の頃に勧請したものではないかと伝えられています。 | |||||||
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御蔵とは藩の年貢米を収納する倉庫で、当時これを御詰米といいました。藩の米蔵に「御収納御蔵」と「中出御蔵」と称する二つのものがありました。両者のちがいは、はっきりしませんが、改作法(慶安〜明暦年間1648〜57)以前からおかれていた藩蔵を「御収納御蔵」と称し、以後に建てたものを「中出御蔵」と称したといわれています。 加賀藩は、領内の各地に藩の年貢米を収納する倉庫を設けました。戸出に設けられたのは承応3年(1654)で、戸出市戸に、壱棟・壱囲の倉を創立したのがはじまりです。 1,057歩の広大な屋敷に、蔵が7棟・22戸前、計り小屋が2棟、蔵番人の家屋が建っており、空地には目廻り1m前後の松が2本と、50cm前後の雑木35本も繁茂していたといいます。 この御蔵に収納される米の量は、9,345石の大量で、戸出御蔵は、御蔵の規模と蔵入米の石数においては、砺波郡内15の御蔵の中で一番大きかったです。 戸出御蔵下の村々は、安永五年(1776)には、189ヶ村を数えました。文化元年(1804)より28ヶ村分を杉木新の御蔵へ譲りましたが、若林・般 若・庄下・五位・国吉・野尻・糸岡の7つの組の村々から米を運んで来ましたので、戸出御蔵は殷賑をきわめました。廃藩後は、藩の御蔵は県に移管されて県蔵と称しましたが、明治7年に廃止となり、蔵は取り払われ、敷地は民間に払い下げられ畑地となりました。 戸出の御蔵は承応3年(1654)御収納・中出御蔵として、壱棟・壱囲創建されたものです。(菊池靖雄蔵日記「御収納中出シ御蔵番人久兵衛給銀」)万治3年(1660)10月、大清水村に8年間建っていたといわれる御蔵を、庄川の氾濫による流失の危険を避けるために、戸出村へ移築されました。 |
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俳人八椿舎康工が地方俳人育成のためにために建てた六壁庵の跡で、無住の処、天保の頃高岡の浄土宗極楽寺の弟子真海が寺を開基しました。明治初年曹洞宗の尼僧川原玄了(岐阜県の豪農の娘)を初代庵主に招き庵寺としました。境内に康工の句碑を建立した「夕顔塚」があります。 | |||||||
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句碑は、高さ97cm(3尺2寸)、幅58cm(1尺9寸)の自然石に康工の句が刻まれています。 尾崎家文書によると、「文化十癸酉年八月十五日 良夜於六壁庵一会興行康工翁石碑築願主尾崎玉 可、石工石屋清右衛門」とあります。 尾崎玉可(古武屋玉河)は、尾崎康工の門人です。文化10年(1813)8月15日の名月の夜、師の康工翁に感謝するために、自ら願主となり、康工が月雪花に遊んだ六壁庵に師の句を刻んだ夕顔塚を建て、同志を集めて建塚の式典句会を催している。山原枕木が夕顔塚を拝して「梨花如雪始開時 下有青蛙鳴一枝 此句吾従髫髪聴 今朝来拝八椿碑」と詠んでいます。 句碑は、昭和33年11月24日、戸出町文化財に指定されました。 夕顔塚の左に並んで「道通天地有象外」と刻んだ碑が建っています。この碑は、康工の子孫である尾崎常文(俳号、霞村)が、大正4年7月、祖先の康工の徳をしのんで建てたものです。常文は、当地方の俳人で31歳の若さで他界しています。 |
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夕顔塚の左に並んで「道通天地有象外」と刻んだ碑が建っています。この碑は、康工の子孫である尾崎常文(俳号、霞村)が、大正4年7月、祖先の康工の徳をしのんで建てたものです。常文は、当地方の俳人で31歳の若さで他界しています。 | |||||||
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駒かけの松 |
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永願寺は、円満山永願寺(報恩寺の末寺)五世諦住の弟の諦了、天和元年(1681)分家して大清水村に道場を開き、元禄5年(1696)永願寺と公称し現在に至っています。境内に西住墳碑があります。 |
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石碑は、高さ1.21m(4尺)、幅52cm(1尺7寸)、厚さ33cm(1尺1寸)の堅い自然石で、嘉応2年(1170)西行が建立したといわれています。文字は上品な書風であり、所々消えて読みにくいのですが、西行の筆であるといわれています。昭和4年台石を積んで、その上に石碑を移建しました。 |
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富山県では近代になってからも連年洪水による氾濫がつづき、その被害は甚大でした。昔から冬季の積雪期を除いて、春季は融雪水、夏季は梅雨と豪雨のために、毎年出水が繰り返されて、地域住民は出水と災害には宿命的なものを感じていました。庄川の河身の改修を施工されない限り、宿命的な災害よりのがれることはできませんでした。被害の甚大であった水害は次の通
りです。 |
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熊野神社境内に御花木(杉双幹)を中心とした杉の大木、目廻り約6.36m(21尺)以下の杉50余本繁茂し、一大林叢を形成していました。御花木は樹齢約400年と推定され、戸出町文化財として昭和33年11月14日指定されました。昭和37年の落雷により社殿を全焼し、大木も相当被害を受けました。翌年11月氏子の浄財よって社殿を鉄筋コンクリート造に建て直しました。境内には吉住の各所から発掘された五輪塔の部品が多く集められています。 | |||||||
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毘沙門杉は、大正13年国の天然記念物として指定を受けました。当時樹齢約1,300年位 と伝えられ樹の高さ28.5mありました。幹の周囲は地上1.8mのところで11m、地上2.3mで4つの枝に分かれていました。 毘沙門杉という名称は、昔この地は、東保郷で常福寺という七堂伽藍のそろった真言宗の大きなお寺があって寺の四隅には、持国天、増長天、広目天、多聞天(毘沙門天)を仏法守護の神様として祀られていました。この毘沙門天を祀った毘沙門堂の跡にとても大きな杉の木が繁茂したので、人々は、これを毘沙門杉と呼び伝えていました。ところが、昭和54年9月台風12号によって一瞬にして倒れてしまいました。 地元の方々は倒れた巨木をしのび毘沙門杉の堂々たる姿を後世に残すため、杉の根本を防腐加工し、永久保存することでこの記念堂が建立されました。 |
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梵鐘龍頭の木型二面は、鋳物師の子孫の林家に所蔵されています。二面 とも高さは30cm幅30cmあり、重さは1kg内外です。木型の材質は不明で、虫喰いがひどく、ようやく原型をとどめている古いものですが、西保鋳物史上貴重な資料です。昭和41年2月7日戸出町文化財の指定を受けました。 西保鋳物師の作品で現存している唯一のものは、厳照寺の洪鐘が残っているだけです。 この梵鐘龍頭の木型は、おそらく寛永15年厳照寺の洪鐘を鋳た頃のものではないかと推考されています。 |
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行兼村関取九紋龍清吉の石碑は、もと岡御所村龍玄坊(はじめ柳玄坊と称しました。)の境内に建てられていましたが、大正14年(1925)3月、龍玄坊本堂を現在の行兼に移築した際、同時に石碑をも移建しました。石碑は自然石で高さ97cm(3尺2寸)、横幅73cm(2尺4寸)、2段の台石の上に建っていて総高1.5m(5尺)です。壁面 の中央に「南無阿弥陀仏」、左側に「吉右衛門忰」、右側に「文化四年」と刻んであります。 | |||||||
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| 関取九紋龍龍吉は、行兼村吉右衛門の忰で身長6尺7寸、体重43貫、手のひらに一文銭9枚を横にならべられる程の大男でした。天明年中(1781〜8)江戸に出て大関に昇り、小野川才吉、谷風梶之助らと共に当時の有名力士となりました。相撲界の横綱は、寛政年中(1789〜800)谷風梶之助が最初ですから天明年中の九紋龍の大関は、相撲界の最高位
であったことになります。九紋龍という四股名は、倶利加羅不動明王の九紋龍からとったともいわれています。よく後輩を可愛がり戸出村出身の大関階ヶ嶽や油田村出身の前頭補石を指導したといわれています。 九紋龍は大男であったが心のやさしい親孝行者で、寒暑に父母のもとへ便りを出し、母病気と聞くや大関の栄誉を棄てて帰郷孝養をつくしたといいます。母に行水をすすめ背中を流し、夕立が降るとたらいに母を入れたまま玄関へ持ってゆき行水をつづけたといわれています。また愛嬌者で子供好きで、戸出や杉木新の町へ出かけると、必ず前後に子供が群がり、炒豆や柿などを分けて貰う様子は「ちいさこべのすがる」のようであったといいます。また、戸出地方では「はしかが」が流行すると、九紋龍の手形の紙を貰らい「九紋龍宅」と書いて門口に貼り、病難除けにしたと伝えられています。 寛政年中(1789〜1800)久留米有馬藩の召し抱えとなり、十人扶持(米36俵)200両を給せられています。しかし九紋龍の生年・死亡年月・親戚 関係などは不詳です。帰郷後、酒と流浪の旅をつづけ、越後国高田で81歳で没したと伝えています。 戸出行兼村の中央に吉右衛門屋敷、三反歩程の吉右衛門島という名の田地があります。このことからそこが屋敷跡でないかと伝承されています。 |
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願性寺の山門は、砺波地方でも最古に属する四脚門で、前口2.73m(9尺)、奥行1.52m(8尺)、棟の高さ6.36m(21尺)の瓦葺きで、両袖付の総欅作りです。門の扉は精巧な鉄金具が打ってあり、両袖は半鐘型で特異な形をしています。門の内側には菱形立桟の武者窓をつけ、上に龍田川の紅葉に鹿の欄間がはめこまれています。蟇股は江戸時代の建築の特長である板蟇股です。この門は寺の山門になっていますが、多分に武家門の様式を取り入れて作られたもので、室町末期から江戸時代初期の作ではないかといわれています。 総体に小柄な門ですが、落ち着いたどっしりとした均斉のとれた美しい姿の門です。このように、珍しく古い山門ですが、文献が寺には見当たらないのが残念です。 伝説によると、文化2年(1805)この村出身の竹村屋(武田)茂兵衛尚勝が、山城国淀の稲葉家の門を譲り受け、所有船大黒丸の下荷として伏木港に荷上げし、千保川を川舟に積んで運び、菩提寺の願性寺へ寄進したといわれています。全部の化粧垂木の木口に、同家の紋である”だきみょうが”の金具が打ちつけてあります。 この山門は、長年の風雨にさらされて荒廃寸前となったので、門信徒の浄財を募って、昭和32年解体修理し、昔の姿そのままの偉容を再現しました。 昭和33年11月24日 戸出町文化財に指定されました。 |
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竹村屋(武田)茂兵衛尚勝の像は、桧材の木彫、寄木造り彩 色の座像で、高さ0.8m(2尺6寸4分)あります。桑の厨子の中に安置してあります。江戸後期の作といわれ、武田尚勝の子芳太郎の造立と伝えられています。 昭和33年11月24日、戸出町文化財に指定されました。 昭和25年子孫の武田獲一が東京へ移住する際、この木像を菩提寺竹村願性寺へ寄託しました。昭和37年9月伊勢湾台風で願性寺の大杉が倒れ、その下敷きとなり破損しました。戸出町文化財保護委員会は、砺波市太田の仏師小西南龍に依頼し復元しました。桑厨子は破損がひどく復元の余地はなく、止むなく新たに造られました。 |
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久兵衛は、古戸出村久三郎の七男として、文政5年(1822)7月13日生まれました。商才にたけた酒好きな人だったと伝えられています。彼の商売は白米を粉にして焼き、その中へ小豆を煮こみ黒砂糖を混ぜて作った餡を入れて焼餅と称して売りました。その型は木曽義仲の妾巴御前の鎧の形を模したものといわれています。久兵衛は常に数十人の売り子を雇い、この焼餅を2里あるいは3里四方の社寺の縁日や祭礼に行商をさせました。戸出の行商人が遠方にまで出掛け、露店を開く習慣を作ったのは、久兵衛が初めてだといわれています。伝えられるところによると、毎年正月15日以後は、毎日原料にする米2斗宛使用したといわれています。 明治17年(1884)2月5日享年63歳で病死しました。 高岡市古戸出一反橋に 「 南無阿弥陀仏、今村久兵衛、草物売子一同」と記した石碑があります。これは明治22年(1889)6月に久兵衛の恩恵を受けた売り子一同が相談して、記念碑を建て報恩感謝したものといわれています。 |
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戸出地区を東西に結ぶ県道富山・戸出・小矢部線(旧上使街道)を中心にして、町の西はずれの北側の中之宮地内と南側の古戸出地内に、相対してそれぞれ一本の杉の大樹が繁茂しています。これが中之宮・古戸出の一本杉またはお諏訪杉です。 |
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中之宮東島148番地に建立してあり、俗に古戸出の大地蔵尊といわれています。地蔵尊の高さ2.4m(8尺)「仏像1.8m(6尺)、台座0.6m(2尺)」、幅1.24m(4尺1寸)の大石仏で、慶応3年(1867)5月井波町石工七次郎の作です。中之宮村の又七・古戸出村の三吉が願主となり町内相はからって建立したといわれています。御堂は大正12年(1923)の建立です。 |
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正楽寺は、文明3年(1471)本山八世蓮如上人の弟子となった法円が、利波郡庄下郷の内、字中野の地に一宇を創建したのがはじまりです。後六代宗玄の時戸出村へ移建し、寛永17年(1640)8月寺号を正楽寺と公称しました。当時の開基と本江山正楽寺の開基は同じく法円であり、寺号もともに正楽寺であることは両寺に何か深い因縁があるようです。世人は当寺を中正楽寺と呼び、本江山正楽寺を西正楽寺と呼んでいます。 |
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この大梵鐘は、 高さ1m 口径67cm 胴囲2m 竜頭 双龍 砲玉高さ25cm 総高125cmあります。 |
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親鸞聖人御影は、中野山正楽寺の重要寺宝で、その裏書きに (紙面)大谷本願寺釈宣如 (花押) 元和九 玄暦 七月八日 本願寺親鸞聖人御影 越中国利波郡九ヶ庄内 燈油田村正楽寺常 と書いてあります。釈宗玄とは正楽寺六代の住職です。戸出村野開き(元和3年)と相前後して、正楽寺が親鸞聖人の御影を受け、村の発展と共に寺院が創立されていることは注目すべきことです。戸出村の名前を、燈油田村と書いたことが証明される現地に存在する大切な文献です。 |
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階ヶ嶽彦三郎は古戸出町に天保6年(1835)5月6日生まれ本名を沼彦三郎と称し、晩年北海道久遠郡上古丹村字宮古町へ移住し、56才で死亡しました。若山源五郎らと安政から藩政末にかけての草相撲取りでした。 藩政末に栄えた相撲の力士は、多く天保から嘉永にかけて中之宮の熊ヶ嶽一派、安政にかけて油屋の若山一派と古戸出の龍ヶ嶽の一派、戸出の北風、横越の荒浪と錚々たる力士が揃っていました。 これら親方の流れをくむ多くの力士は、明治初期に先輩の業績をたたえて一丸となり、明治36年11月彦三郎の石碑を建て、自分たちの名を連ねて記念としています。 階ヶ嶽龍右衛門は、戸出町出身の関取りで、文政時代から文久年間まで江戸相撲に花をそえ、68代目の大関を飾りました。彼は、文化14年戸出町百姓権平の長男として生まれ、幼名岩次郎といいました。幼いころから力が強く、25歳で江戸に出て雷権太夫の弟子となり、初め「奥の海」、その後「龍ヶ嶽」と改め奮闘し大関に昇進し、奥州八戸(はちのへ)藩のお抱え力士となりました。その後名を改め「階ヶ嶽」と名のり盛岡藩南部候のお抱え力士として土俵を勤めたといいます。文久2年関取をやめ、郷里に帰り、明治元年、52歳で病死したと伝えられています。墓は戸出町の中野山正楽寺にあったといわれています。 版画は丈夫な薄美濃紙いっぱいに当時勇壮な階ヶ嶽関の和服姿を、墨、赤、青の3色配色で巧みに描かれています。作者は藩政時の版画家で知られる二代歌川豊国です。同類の版画は2枚しか発見されていない珍品です。 |
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1617年11月1日に戸出野開きの御印を受けて新開を始めた川合又右衛門、その二代目又右衛門が、藩主利家を弔うために高野山に参詣した折り、高野槇の苗を貰い受け、自分の庭に植えたと言い伝えられています。 現在は電気商中野与七さん方裏庭にあり、見事な高野槇の老巨木です。推定樹齢350年で、目の高さでの幹回り4メートル、高さは18メートルあります。どの枝も、柳のように下へしだれていて、こんもり木全体が膨らんで見え、枝は地面 すれすれまで広がっているすばらしい枝ぶりで、外からは幹も見えません。 木の前に、小さな鳥居があります。この木に天狗が住んでいるという、言い伝えがあり、枝を折ったり、そまつに扱うと、タタリがあるといいます。中野さんは鳥居を建て、毎年4月29日に山海の珍味を供え、お寺さんに来てもらってお経をあげ、木のお祭りをしておられます。川合家以来のしきたりを踏襲しているそうです。 川合家は、生涯独身だった十四代当主の川合禾(おおし)さんが、昭和38年に亡くなって家は絶えました。戸出の歴史の名残が、この高野槇にしのばれます。 |
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自分が生きたまま穴の中などに入って、生身のまま仏になろうとする即身成仏の考え方が古くにはありました。密教といわれる天台宗や真言宗などがそうです。明治以前は、修験者、行者と言われる人たちが、日本全国の霊場や、また小さな村々までも歩き回り、時には通
りすがりの村に住み着いた者も多くいました。彼らは病気を治したり、雨乞い、道普請、鉱山師、霊場への道案内等々、いろいろな技術をもって信仰を集めたりもしました。 光明寺字井町に「念仏堂」があります。ここは3ヶ村の共有地であり、かつて「ドンドの山」と呼ばれていたことからも、村境だったのでしょう。この光明寺の念仏堂で穴に埋められた(これを「入定」という)行者がいました。彼は、実は雨乞いをするために穴に身を埋めて死んだというのがもっとも有力な言い伝えです。 |
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報恩寺の開基は、親鸞聖人の真弟子24輩の上首性信坊で、開創は東関高龍山報恩寺七世蓮乗が西保郷落合村に来村し、寺を建立したことにはじまるといいます。性信坊は建保2年(1214)下総国飯沼横曽根に報恩寺を建立しています(明治13年寺院調)。寺伝によると、「文明7年(1475)[三州寺号帳には応永元年(1394)乗尊とある]報恩寺七世蓮乗が蓮如上人をを慕って井波瑞泉寺に来たり、落合村に一寺を建て、一子崇乗をもうける。蓮乗一旦東国に帰り、その跡を総領蓮興にゆずり、法物記録の一部を携えて再び落合村に来て隠居した。」とあります。後に蓮乗新川郡蛇田村に草庵を結び(現在の下新川郡浜経田勝福寺「大谷派」)その地で死去したといいます。 落合村報恩寺のあとを継いだ崇乗は、17ヵ寺の末寺をもつ程に栄えました。本願寺九世実如上人は、関東報恩寺と混同するということから勝福寺の寺号に改めさせました。その後慶長7年(1602)本願寺が東西に分派の際、本家の関東報恩寺は大谷派(東)に属したので当寺も末寺と共に関東の本家寺に随従することになりましたが、当時の住職慶乗の養子玄乗は末寺、門徒にも相談せず本願寺派(西)に属してしまいました。立腹した門信徒は野道乗順を擁立し一寺を建て、勝福寺から分離してしまいました。この寺が今の西部金屋光証寺であるといいます。 門徒・末寺の反目分離から勝福寺は衰微し、落合村から春日吉江村へ移住し、さらに大清水に転じ、終いに戸出村酒屋弥助の東隣に坊舎を建て慶乗は隠居寺としました。寛文3年(1663)2月、寺は類焼しましたが元禄13年13世貞信は性信坊旧跡の寺であり相伝の法物の埋もれてゆくことを憂い、本願寺(14世寂如上人)へ願い出て、勝福寺を往古のとおり報恩寺と改称するようになりました。また宝永8年(1711)8月、この寺は24輩性信坊の遺跡であり、血脈の由緒正しい寺であるという免許を受けました。 |
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見真大師(親鸞)の木像は、報恩寺の寺宝で、高さ45.5cm(1尺5寸)あり、鎌倉時代の作と推察されています。安心符合の御影ともいいます。 背面に貞永元年(1232)の墨書が残っています。寺伝によると、顔は親鸞の自作であり、胴は法弟性信坊の作と伝えられていますが、同一の刀法で彫刻されたようにみえます。昭和33年11月24日、戸出町文化財に指定されました。 |
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戸出の開祖 川合又右門が加賀藩から戸出の野開きの許可を受けた元和3年(1617年)の説と、平安時代の天永3年(1112年)の2説があります。本殿、拝殿とも神明作りです。 祭礼は4月11日、10月第二土曜日に行われ、特に秋祭りは神様獅子、子供の幎武者を先導とする御輿の渡行が行われます。これは、元禄10年(1698)からの伝統行事で明治時代には高岡や砺波一円からの人手で賑わったと言われています。 (祭神)天照皇大神(アマテラスオオミカミ) |
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