水橋物語〜歴史と文化〜
水橋の古墳と遺跡
古くからの歴史を育む富山市水橋では太古からの歴史が刻まれた遺跡や出土品が多く発見されています。

古代の水橋駅か 水橋荒町・辻ヶ堂遺跡

奈良〜平安の時代には、情報の伝達や陸上の交通手段として、馬が用いられ、都から地方へ向けて道路の整備が行われました。
道路には、火急の文書を早馬で知らせるための駅路(官道)と。国司の赴任など日常の移動用に使った伝路(地方道)の二種類があります。駅路はいわば高速道路、伝路は一般道路に相当します。
日本海側の駅路には、滋賀の穴多に発し、福井から新潟へ至る古代北陸道がありましたが、富山(越中)では、倶利伽羅峠を越え、海岸沿いに向かったと考えられます。


そのような古代北陸道と思われる道路跡が水橋荒町・辻ヶ堂遺跡で見つかっています。
遺跡は富山市北東部、常願寺川の左岸河口付近に広がり、縄文時代から江戸時代まで続く大規模な集落跡です。平成3年から9年にかけて4次にわたる発掘調査が行われ、奈良〜平安時代(8世紀前半〜9世紀初め)の掘立柱、建物、井戸、溝、道路跡などが発掘されました。
掘立柱建物は、柱穴の直径が1mを越える規模の大きなものが50棟あり、井戸を伴った施設や倉庫群と考えられます。道路跡や溝を基準に計画的に配置されていました。
道路跡は路面幅が約6mあり、両側に幅20cmの側溝がつきます。ちょうど海岸線に沿うように東西方向へまっすぐに伸びており、約100m分見つかりました。側溝からは、白鳳〜奈良時代後半(7世紀後半〜8世紀後半)の須恵器、土師器が出土しています。
路面幅6mの道路は、現在でも車道として充分通用する規模で、幅広く立派に整備されており、駅路(官道)の役割をもつ古代北陸道であろうと考えられます。


平安時代初期の史料「延喜式」によると、古代越中国には8つの駅家が置かれていました。その1つに水橋駅があり、乗り継ぎ用の馬5頭を置くように定められています。
駅家は駅路の間、約16kmごとに設置された中継基地です。物資の補給、食事、宿泊のできる施設や馬小屋が設けられました。文書の伝達を介して都と地方とを結ぶ重要な役割を担っており、公的施設として役人が維持・管理を行っていました。
水橋荒町・辻ヶ堂遺跡で見つかった大型建物や倉庫群は、そのような施設に相当し、古代の「水橋駅」として機能したと考えられます。



県内最大級の円墳発見 若王子塚古墳

平成12年7月、水橋中馬場の水橋金広・中馬場遺跡で県内では最大規模の最古の大型円墳となる「若王子塚古墳」の存在が確認されました。県内での大型円墳の成立はこれまで5世紀以降と見られていましたが、若王子塚古墳は4世紀に造られたとみられ、従来の定説を覆す大発見となりました。
若王子塚は、富山市、舟橋村、立山町を流れる白岩川の流域にあり、同流域では稚児塚古墳をはじめとする大古墳がすでに4基集中して見つかっています。
これまで円墳を含めた首長クラスの古墳は県西部に多かったのですが、この古墳の発見により、県東部にも早くから権力者の存在と開発がはじまっていたことが推測されます。



漁具の絵が彫られた木うすが出土

成12年8月、水橋中馬場の水橋金広・中馬場遺跡で、魚を突き刺して捕るヤスと漁具の絵などを彫った木うすが出土されました。線刻画が彫られた木うすの出土はなんと全国初。江戸時代前期以前の物とみられ、集落跡からいけすとして使われたと推測される井戸跡も多く見つかっていることから、この一帯で当時、サケ、マス、アユ漁が盛んに行われ、川魚の加工場もあったのではないかと推測されています。


●ヤス
長さ約38cmで刃が三つまたに分かれ、先端に返しがついています。重さは約500グラム。材質は鉄で銅メッキが施されています。県内では、これまでに婦中町、舟橋村でヤスが見つかっていますが、当遺跡で発見されたものが最大級となります。大きさから推測すると、白岩川にさかのぼってくるサケ、マスを捕獲したと考えられています。

●木ウス
直径が約45cm、高さ約35cm。江戸時代前期まで使われたとみられる井戸跡から見つかりました。内部がくり抜かれており、うすとして使った後に井戸底の水ためとして再利用されたと推測されます。うすの外側に刃物で彫った線刻画が多数あり、さまざまな大きさのヤスのほか、魚を突き刺したり、釣り針や網で捕獲する漁業の様子が描かれています。