昭和5年7月、全国各地の民謡を採譜していた詩人の西条八十が「コキリコ」を探して五箇山・平村地方をおとづれた。
そのときの様子が昭和5年朝日新聞社より刊行された「民謡を訪
ねて」に登場する。
文中にも登場するが、氏はかねてより民俗学者の柳田国男氏より聞いていた、五箇山地方に伝わる「コキリコ」なる古謡にいたく傾倒していたそうである。
当時、ふもとの城端町までは車で3時間を要していた時代であり、近代化甚だしい時代ではあったが五箇山には独特の文化が多く残されていた。
それでも日本各地に伝わる「民謡」というものが消えゆく流れに民謡の宝庫五箇山もその例外ではなく、コキリコも当時村の長老が知るのみとなっていた。
麦屋節、こきりこの歌詞が文中の随所に登場する。
本文より〜
…庄川を差し挟んで高い藁家が密集している。そこが平村の中心地だ。私たちの車はやがて峠を下り尽くしてその部落にはいり込んだ。
(中略)
藤井氏は五十恰好の土地生え抜きの人。隻眼を光らせて無愛想の私の質問に答える。
麦屋節を聴きたいと所望したが、昼間はうたう人も踊る人もみんな山へ働きに行っていて駄目だとのことだった。 わたしはやはり五箇山に残っている古謡で、城端では聴くことのできない「コキリコ節」をどうかしてここで聴くすべがないかと訊ねた。この謡の次のような歌詞が「北国巡杖記※
(右覧参照)」に出ているのを、私はかつて柳田国男氏の話で知って以来いたく愛誦している。
もしそれが聴かれるのだったら今宵一夜をこの山中で過ごしてもいいとさへ思っていた。
~むかひの山に啼くうぐいすの
ないてはさがりないてはあがり
朝草刈りの目をさます。
(中略)
なお五箇山にはこのほかに「長麦屋」
「しょだいじん」(これはおそらく「古大神」とおなじものであろう)「四竹ぶし」等の歌謡があったが…
(中略)
私たちが藤井老人の珍らしい山語りに 飽かず耳傾けているうち、いつか山から帰ってきた村人たち ―その昔平家の落人であり、加賀藩の武士であって、いまもその名残りをとどめた朝の紋服姿で野山に労作する― は、私たちを取巻いて好奇の眼を輝かせ、四囲の峰々の頂きを染める赤い夕日の光は、すでにこの山村に夕暮の近づいたことを知らせた。 …… |
奇談北国巡杖記
(きだんほっこくじゅんじょうき)
1806年(文化3年)鳥翠台北茎によって書かれたものです。
人形山の雨
人形山は同國となみのこをり。
五箇山のうち田向村のうへにあり。
雪この山につもりて。
人の形相に身ゆるゆゑにかく号け侍るとぞ。
いにしへより此ところは。
四時ともに雪ふりて。例年梅雨に入日より。
明る日まで雪ふらず雨ふるとなんゆゑに
薪をもて此寒を防なれば。
毎春家ごとに薪を撫なり。一家に一丈四方の積を。
十余這山のごとく貯といへり。
食物わさびをとりて食ふとあり。
都て北山の寒苦いはんかたなし。予も此の山にのほりて。
雪の積れるを見からうじて下りける。
神楽踊筑子唄譜
越中五ヶ山に邑数七十二郷あり。
ここにいにしえより神楽をどりこきりこ唄とて囃しものあり。
女は常にも白絹のかづらひもを頭にかけ。
うしろへ結たれ白絹の石帯をかけて。
人にまみへ踊るときもかくのごとし。
平家の類葉落居して村民となり。
今に子孫あまたある事にて官名を名乗るされば。
毎仲秋のころこきりこ踊りといへるを催すに。
笛太鼓鍬金にてこれをはやす。
筑子の竹のうちやう七五三五五三
うちはやす女竹の長さ五寸五歩丸竹二本なり。
是をこきりこのふたつの竹といへり。
いと鄙(ひな)めきて古雅なれば左に志るし侍る。
筑 子 唄
思ひと恋と笹舟に乗せりゃ おもひは沈むて恋はうく
波のやしまを遁れ来て薪樵るてふ深山辺に
烏帽子狩りぎぬ脱ぎ棄てて 今は越路の杣がたな
むかひの山に啼く鵯の鳴いてはさがり鳴いてはあがり
朝草刈の目をさます
向ひの山をかづことすれば
荷縄がきれてかづかれぬかづかれぬ
をどりたか踊れ泣く子をおこせささらは窓のもとにある
向ひの山に光るものなんじゃ 星か蛍かこがねのむしか
今来る嫁のたいまつならば さしあげて燃せやせをとこ
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