じょうべのま遺跡
平安特代前期の建物10数棟、それは、東大寺の荘園跡か?じょうべのま遺跡は国指定史跡。

 田中地区から土器や規則正しく並んだ木杭なビが耕作中に発見されたのは、昭和16年頃にさかのぼります。昭和45年になると、田中地区一帯で圃場整備が行われることになり、それに先立って発掘調査が実施されました。以後、現在まで17回にわたり調査が実施されて、大きな成果をあげています。
 しょうべのま遺跡の年代は、平安特代の前期及び鎌倉時代の前期の二期に分かれます。
 平安時代の前期に属する掘立柱の建物は、10数棟も検出されています。正面に主屋、その左右に脇屋が建てられるなど「コ」の字型の配置がなされており、さらに5回以上の建て替えがなされています。また、柱穴などからたくさんの遺物が出土しています。
 それらは、須恵器(すえき)、土師器(はじき)、硯(すずり)、緑釉(りょくゆう)・灰釉(かいゆう)陶器、製塩土器、土錐(どすい)、木簡(もっかん)、下駄などです。特に、須恵器や土師器の底に「田中」や「西庄」という文字が書かれた墨書(ぼくしょ)土器と「丈部吉椎丸上白米五斗(はせつかべきしまろ)」などど書かれた木簡が注目されます。これらの出土遺物や建物の配置から、荘園の荘所(しょうどころ)跡ではないかと推定されており、東大寺領丈部庄(はせつかべのしょう)に比定する説が有力になっています。
 鎌倉時代前期に属する、据立柱の残物は7棟以上発見されています。建物を取り囲むようにめぐっている溝も検出されています。出土した宝物は珠洲(すず)焼、土師質土器、中国製青磁、白磁などです。
 中国製の青磁や白磁は、当時において一般の人々が所有できるとは考えられないため、かなりの地位の人々がここに居住していたと考えられます。
 このころには、東大寺領入善庄が成立しており、この建物や遺物を入善庄に関連付ける説も出ています。
 昭和56年及び58年の調査では、遺跡の北側で幅30メートルにもおよぶ、旧河川跡が発見され、当時の自然景観や交通手段を推定するうえで有力な手掛かりとなりました。
 これらの成果をうけて、じょうべのま遺跡は昭和54ヰ5月14日に国指定の史跡となり、永久に保存されることになりました。さらに町では、多くの人々が活用できるように、指定地内を史跡公園として整備し、平成2年4月から一般に公開されています。

柱穴(ちゅうけつ)
 遺構は、遺跡の範囲や規模、構造物の推定等に重要な意味を持つ。本遺跡では、木造建築物の存在を示す多数の柱穴が見つかった。柱穴の重なり具合により、遺跡中心部で5回以上の建て替えが行われており、木遺跡が相当長い期間存続したものと考えられる。
墨書土器(ぼくしょどき)
 本遺跡から最も多く出土したのは、土師器(はじき)や須恵器(すえき)、緑釉(りょくゆう)陶器、灰釉(かいゆう)陶器などの土器類であり、この中で重要なものは墨書土器である。「西庄」「寺」「田中」などと書かれたものがあり、この遺跡が寺に関係のある荘所(しょうどころ:荘園の管理所)跡と推定される。
下駄(げた:上)
 杉の木で作った右足用の下駄である。相当使い古されたものらしく、台の板目は年輪が浮き上がっている。鼻緒は穴に残った植物繊維から見て麻が用いられたものとみられ、使用された場所は主として、床上のような平面と考えられる。

杯蓋硯と風字硯(はいがいけんとふうじけん:中、下)
 墨書土器とともに須恵器杯を利用した「杯蓋硯」が多数見つかっている。また、その形が「風」という字に似ていることから「風字硯」と呼ばれる、全国でも数少ない硯が出土した。

木簡(もっかん)
 木製品も多数出土しているが、この中で何といっても最重要資料は「木簡」である。木簡とは墨書きされた木の札であるが、木遣跡で6点が発見された。その中の1点が本道跡の性格を決定する上で大きな決め手となった。表は「丈部吉椎丸上白米五斗(はせつかべきしまろ)」、裏は「十月七日」と書かれている。丈部吉椎丸という人が白米五斗(当時の1俵)を上納したことを表わす付札(つけふだ)である。

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